僕はものづくりの現場に長く携わっている。今は現場の管理業務をやっている。
ライン作業は単純作業の繰り返しだ。訓練すれば誰でもやれるようになっている。
身体が覚えてしまえば頭を使うことはなくなっていく。頭を使わないってことは、楽な仕事のように思える。実は頭を使わなくなることは恐怖だ。
頭を使わない仕事。頭は使えなくなる。
ライン作業は同じことの繰り返し。最初の頃は覚えるために頭も使う。
繰り返し訓練すれば、誰でもできるようになる。身体が覚えるとよりスピーディーにやれるようになる。そして頭は使わずにできるようになってくる。
はじめのうちはやりにくさを感じていても人間は慣れてくる。それが当たり前になる。そのやりにくさをやりやすい方向に工夫するために頭を使う。それがカイゼンである。
人は頭を使わないでも仕事ができるようになると、新たな情報を積極的にインプットすることがなくなる。考えるという行為自体をしなくなるのだ。そうなると、長年同じ発想で同じ思考の深さに留まるようになる。やがて考えることができなくなる。
そして、インプット量が減ると、口から出てくる言葉は毎日同じ内容。詰まるところ愚痴、悪口に集約される。あとは娯楽の話。
毎日同じ話ばかり。久しぶりに喋っても話題がない。それは毎日のインプットが少ないから。考えることの低下からきている。
頭を使わなくなるのは、洗脳みたいなもの。
会社のやり方が気に入らなくても立ち向かう気すらなくなっていく。
頭を使うのは自分を守るため
作業をよりよくしていくこと。
実はカイゼンは自分を守るためなのだ。
なぜなら、頭を使うからだ。頭を使うと疲れるし、使ったわりには成果に結びつかないこともある。だが、そのプロセスの中で頭を使う。実はこれは自分の脳ミソを劣化させないためには大切な活動なのだ。
僕は会社のために頭を使ってより合理的に、より生産性をあげるため尽力せよと言いたいのではない。
もともとカイゼンは自発的に出たものではないか?と思ってる。
今では会社の目標値を達成するためのやらされ仕事でうんざりしているのだが。
頭を使って、工夫しカイゼンして現場がよくなっていくことは楽しいはずだ。そこで頭を使うことは、結果的に自分を守ることになる。使わない頭は衰える。
やらされてるからおもしろくない。自分達でやったことは楽しいものだ。
頭を使わず単純労働で給料を貰うこと。一見楽なように見えて、実は自分の能力を低下させているかもしれない。
頭を使うことは自己防衛なのだ。
社畜とは心も体も魂も時間も会社に奪われているものである。奪われて空っぽになっても、考える頭があれば這い上がれる。もしも自分の考える能力まで奪われるとしたらどうだろう。考える頭までもっていかれたら終わりだ。
自発的に頭を使うことは搾取への抵抗なのである。
会社のために、自分の頭は使いたくない。楽に仕事をして給料だけ貰いたい。そう思っていたら要注意。頭を使わないことは自分にとって危険なことだと認識しておこう。
僕は考えることを放棄した奴隷にはならない。
それでは、また明日!