朝のコンビニで思う。便利になっても楽にはならない。でも便利は使いようだ。

日常

今朝は寝坊してコンビニに寄る。普段は絶対に寄らないが仕方がない。

僕は朝のコンビニはできれば行きたくない。

臭いが気になるのだ。朝からコンビニによるとコンビニ特有の揚げ物の臭いが体につく。

僕はそれが嫌で朝からコンビニに寄ることはしない。

いつもは自宅で朝御飯を食べてから車で出勤するのだが、寝坊した朝や、昼ごはんを買って行くときは寄ることになる。

急いでいるときでもコンビニに行けばなんでも揃う。とても便利だ。

遅れてしまった時間もここでリカバリーできるのだ。


それにしても、朝のコンビニはめちゃめちゃ混んでる。みんなが朝ごはんや昼ごはんを買って仕事に向かう。

車のなかで運転しながら朝ごはんを食べている光景をよく見る。朝からカップラーメンにお湯を注ぎ、手に持ったまま車を運転する強者も見たことがある。

何というか、「便利なようで、ゆとりのない現代人」と思うのは僕だけだろうか。

便利なものを使っているようで、実は使われている。

仕事だってパソコンを使うのは当たり前だ。昔と比べて何倍も便利になっているが、逆に忙しくなってる。

スマホなんてあるせいで仕事の連絡が休みの日でもやってくる。工場なんて夜勤もあるのだから、昼夜関わらず連絡がくる。これじゃ24時間営業だ。

きっとどれだけ便利になっても楽になることはない。2倍便利になったって2倍楽になることはないのだ。

ならば、あえて不便を選ぶのが、このシステムへの抵抗なのかもしれない。

便利なものから自ら離れる。あえて離れる。

エスカレーターに慣れようものなら、足の筋肉は衰える。

ならば不便を選択して階段を使った方が自分のためなのだ。

便利など不要だったのだ。

何でも合理的に考えすぎることは誤謬なのだ。

これからは合理的に不便を選択するのだ。


でもちょっと待て。遊びに行く時はコンビニでご飯を買って、車の中で食べるときは楽しい。

楽しいお出かけの時はコンビニでごはんを買うのも一つのイベントになり得る。

ならば、朝けだるそうにコンビニでごはんを買って、朝食を口につっこみ、向かう先は楽しみでもなんでもない仕事。っていうのは僕が掛けている色メガネだったのかもしれない。

毎日仕事が楽しみで出勤している人にとっては、朝のコンビニ飯も一つの楽しみなのかもしれない。

車内での食事はエキサイティングなイベントなのかもしれない。


というわけで、寝坊してコンビニに行ったことから、便利さに疑問を感じ、あえて不便益を選択する必要性を感じ、その後自分に掛かっていたバイアスに気づき、便利のありがたさを認識する、と思考の忙しい日だった。

便利だって要は使いようなのだ。考えてみれば当たり前なのだが。

便利さは最大限に享受し、自分のためになるように使えばいいのだ。

僕だってコンビニは便利だから、今後ももちろん使い続ける。

でも、朝の時間だけは行かないようにしよっと。


それでは、また明日!


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