現役工場労働者がマルクスの資本論を読んだら。

工場勤務

言わずと知れたマルクスの資本論。詳細は他に譲るが、現代でも資本主義への警鐘としてたびたびクローズアップされる。

労働者は資本家に搾取される。現代の働き方は変化し、もっと自由に生き生きと楽しい働き方を選ぶことができるようになった。

でも、これは一部の会社だけだよね?

僕は現役の工場労働者。昔ほどの3Kの印象はないが、いまだに意味不明な古臭いことをやっている。

資本家に搾取されている感は大いに感じる。

そんな僕は資本論に影響を受けている。難しい本でどこまで読み取れているかは分からないが、色々と現状に対して疑問を持つようになった。

何でも数字で言え。数字以外は聞かぬ。

会社に勤めていると、何でも利益や効果を数字で考えるようになっていく。何でも数字でみるようになると、数字にならないものを軽視するようになる。ここに人間を狭くするものを感じる。

会社において成果をはかる指標として数字は必ず出てくる。

『この活動になんの意味があるの?』

『この改善はどんな効果があるの?』

『どれくらい良くなったの?』

すべて数字でアウトプットする必要がある。

この数字はすべて会社の方針に繋がっている。会社にどれだけ貢献できたか、活動の成果がみえるようになる。

数字で見えるから成果が客観的になる一方、数字にならないものは無視されがちだ。

一見効果として見えない効果も無形効果として一応は評価はされる。だが、数字のそれには敵わない。

具体的には人と人とのコミュニケーション。

相手に対しての配慮や思いやりが欠如していく。

仕事の受け渡しも然り。ここまでは自分の仕事、と責任を全うするのはよいが、ここまでは自分の仕事、あとは知らないとばかり雑な仕事を渡される。

すべてが損得勘定で考えるようになっていき、数字にならない部分は雑になっていく。

思いやりの欠如で魂が包摂されていく

同じ会社なのに、各部署がそれぞれ自分勝手なことをいいだす。

そして責任をなすりつけあう。みな自分の部署の数字を上げることで必死なのだ。ウチは安泰。ヨソは知らない、世界なのだ。

特に僕の勤める工場ではそんな文化が色濃い。表向きはみんなのために仕事をしよう、と言っているのだが。

マルクスの言うところの資本主義における包摂ってやつを感じる。

やがて魂まで包摂されていく。

価値を増大させる運動が、こころを枯らしていく。

だから自分の頭を使って、なにか自分がみんなのために貢献できることはないか考える。なにか他人が喜ぶことはできないか?と。

表向きには言わないけど、僕ができることで他人が喜びそうなことを密かにやってみる。

他人を思いやる心までは搾取されない

僕の勤める工場はコロナ禍の現在でも忙しく残業続きだ。

僕は職場のみんなの出勤シフトを組む業務がある。だから、誰かの有休休暇の前日は定時で帰れるようにシフトを組んでおく。ちょっとでも休みを長くしてあげたい、という気持ちからだ。なぜかと言えば、僕なら休みの前日に早く帰れると嬉しいから。

恩着せがましくするつもりはないし、別にそれが伝わらないてもいい。

損得勘定で考えず、誰かを喜ばせるために自分の時間と頭を使いたい。

偽善なのか?いやいや、そんな立派なもんでもない。

自分のためにやっている。自分勝手な余計なお世話なのだ。

これは資本主義の包摂に抗う、いち労働者の抵抗なのだ。

思いやりは抵抗であり、親切は革命なのだ。

自分の真心まで搾取されてはいけないのである。

おかしな社会だな。


白井聡さんの武器としての「資本論」も面白かった。

これを読むとまた本家が読みたくなる。しかしまぁ、これだけ深く資本論を読み取れるなんて。

それでは、また明日!



コメント

  1. […] […]

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